2016年11月21日月曜日

第3回八本松会 原地区の歴史散歩

第3回八本松会 原地区の歴史散歩

日時 2016.11.20 13:00 八本松地域センター集合

コース:

1.教順寺(きょうじゅんじ)・・・浄土真宗本願寺派 山号:宗光山、本尊:阿弥陀如来
        開基:明らかでない。
        1574年(天正2)第2世願念が現在地に移す。
        1853年(嘉永6)本堂再々建。
        雲幢(うんどう)の墓、書簡など、宇都宮黙霖の扁額
        広島高等師範付属中学の疎開の感謝の碑
        盃状穴のある手水鉢
        雲幢 号は幻華 本願寺派最大の宗義騒動「三業惑乱(さんごうわくらん)」では
        旗手の大瀛(だいえい)の支援活動を行う。大瀛の死後、中心的な立場となる。
        教順寺住職をつとめていた。
        本山で講師をつとめたりし、初の本山勧学のひとりに任命された。
 解説:先代住職 戸島行蔵様
教順寺 本堂

雲幢の墓 中央 左は初代の墓


本堂で前住職 戸島行蔵様にお話を伺う。
戸島行蔵前住職さまより、教順寺の歴史、雲幢師のこと、そして宇都宮黙霖に
ついてお話をしていただきました。

吉田松陰の思想を改めさせた、勤皇僧 宇都宮黙霖の扁額
幻華とは雲幢の号、遺迹法城(ゆいせきほうじょう)とは住職を務めた教順寺をさす。
「幻華遺迹法城」とありますが、「遺迹」とは、「ゆいしき」寺院関係では読みます。
「遺跡」のことのようです。
生活が行われていた場所とかいう意味に使いますが、まさに雲幢が住職として、
阿弥陀仏を拝み、生活をされ、仏教を教えておられた場所をさすのでしょう。
法城も堅固なことを指すのでしょうが、三業惑乱での働きをしめしたのでしょうか、
それとも観学の称号に相応しい雲幢師の事を称えたのでしょうか。いずれにしても
黙霖が雲幢に対する思いを最高の表した書であることは間違いないと思います。
三間にわたる一頭の龍の欄間は珍しい。本堂が火災にあった時に持ち出され
再建時に取り付けられたものという。

盃状穴のある手水鉢 子宝などの願いや様々な願いを込めて手水鉢の
縁や底に穿たれた凹みを盃状穴と呼びます。前住職様のお話によると
正力の方が自分たちで運んだといわれていたということで、他から運ばれ
てきたもののようです。
昭和20年広島高等師範学校付属中学1年生が、疎開先の原で受けた恩に対し
感謝の気持ちを石碑として残されたもの。アカシア会回生


2.雷八幡神社(いかづちはちまんじんじゃ)・・東広島郷土史研究会初代会長 景山英俊氏が宮司をされていた神社。
 清和天皇の859年(貞観元)宇佐八幡宮より勧進。もとは原村、下見村、吉川村の総鎮守と云う。御神像には1382年(弘和2)の墨書銘あり。
「天地育萬物」(天地(自然)は、萬物(あらゆる物・
全ての物)を育てる(産みだす))、
「神意創千世」(神意は千年の世を創る・神様が
私たちの生活を創ってくださっている・
人間古いことばかりやっていては、活きていくこと
は出来ない、常に新しいものを生み出い
創り上げていかなくては成り立たないのだという
事を言っておられました。)
 多くの絵馬が拝殿に掲げられている、36歌仙の
額が31枚があり寄進者の屋号があり江戸期の奉納と
思われる。
 歌碑2基、句碑2基あり、

光岡 始(一芽)句碑
「花げんげ子ら走りこみ 
はしりこみ(西条町下見、光岡始・俳号:一芽)」
 1984年(昭和59)1月。


 「守りゆく 一すじのみち 大き道」 宮司 景山英俊
神様にひとすじにお仕えする気持ち、これまでのご自身のことをよまれたもの。
社務所から境内に向かう坂道のところに建立されたものです。

 歌碑1.「恵まれしめぐりあひこそたうとけれ 阿さのひかりに かしは手をうつ(宮司:景山英俊)」1986年(昭和61)7月10日。
宮司 景山英俊 歌碑

 これまで大きな出来事にあって、横浜でも関東大震災の前に、もどってきて震災にあわなかった。広島の原爆でも船越で訓練をしていて直接原爆にあう事はなかった。そういった大災害に合わずに今の自分はある。そして多くの人々に出会い今の自分がある、とてもありがたいことだ、旭日に向かいそのことを感謝して旭日に向かって拍手をうつということを直接伺いました。



 歌碑2「湖のあとと聞かされ目を放つ 原の盆地の穀倉地帯(広島市:山本康夫:歌誌真樹主幹)」、1988年(昭和63)12月

山本康夫 歌
宮司 景山英俊先生から、原の穀倉地帯は大昔、一帯は大きな西条湖と呼ばれる湖であったことを聞かれて、感動されたときの歌です。

曽場が城 城主の祈願所であった。 
 原村、吉川村、下見村の総鎮守であった。

3.訓練中に亡くなった兵士の墓(自衛隊原村演習場内)
4.姫が池(源三位頼政公室 菖蒲前の子、水戸新四郎頼興が城主の二神山城が落城した際、菖蒲前が落ち延びるとき、追っ手を引き付けるため侍女 鶴が身代わりに身を投げた池)
「姫が池」侍女鶴が、菖蒲前の身代わりとなり入水した池、原の村人は「姫が池」と呼び
今でも菖蒲前や鶴のことを語り伝えている。
二神山城落城に纏わる話が、侍女鶴の入水へと繋がる、源頼政と菖蒲前の子ども、水戸新四朗頼興の居城、二神山城(広島大学キャンパスの西側の山城)は、元久元年(1204)、土肥実平らに攻め落とされてあえなく落城、頼興とその子供も無事逃れることが出来て、福成寺に逃れた、菖蒲前は家臣と共に今の瀬野川まで逃れたという、途中追っ手をくらます為、侍女の鶴が菖蒲前の衣を羽織り追手に高々と名乗りを上げて、池に身を投げたという、その時持仏を池のほとりにおいて入水したという。その持仏は後にでる、為本の西福寺に伝わる。

5.圓福寺、小倉寺が圓福寺となる。臨済宗妙心寺派、多くの寺宝が伝えられる。菖蒲前をまつり現在も法要が行われている。
臨済宗妙心寺派 瑞鳳山小倉院圓福寺
一時は廃寺となっていたが、村人の熱意で再興された。

圓福寺再建の碑 廃寺となった寺を再興させることが
出来た喜びが伝わる。

入口には瑞鳳山小倉院圓福寺と書かれている。
小倉神社の流れの寺であることを伝える。
今も菖蒲の前の位牌などがあり、村人は法要を営んでいる。

6.小倉神社遥拝所(神楽殿) 三戸民助氏(水戸親四朗頼興の子孫とされる)が寄進された鳥居などがある。
小倉神社遥拝所(神楽殿)、山上の小倉神社は、途中に演習場があり
祭などの時に参拝に行かれないことがしばしばあり、ふもとに建てられた。
水戸親四朗頼興の子孫という、水戸民助氏が鳥居を寄進。

柱には三戸民助源頼明と記されている。
氏は度々小倉神社を訪れ、自ら作った唄を歌われていたという。

7.毘沙門堂
毘沙門堂、現在の堂は吉川の毘沙門堂を買い受けたものとされる。
臨済宗妙心寺派

8.小倉神社・菖蒲前と従者の墓がある。市天然記念物 タブノキがある。
 数基の歌碑が建てられている。拝殿には雨ごいで御利益のあったお礼の
 絵馬が掛けられている。
小倉神社 禊場横の駐車場の左手に建立された歌碑です。
「ひとさかえ ひとのほろびてゆきたらむ おちばにそそぐひかり みじかし」歌、渡部正則。





木の鳥居をくぐり、標柱が立ち石段へと続く坂道。
参道の保護のための葺石なのか、自然石の露出なのか?小倉神社のある山は、
細かな石が堆積されたこのなのか?花崗岩が自然に崩壊したものなのか分かり
ませんが、参道・両脇にと積み上げられたように並んでいます。

市天然記念物 小倉神社のタブノキ

タブノキ解説

小倉神社 拝殿

境内にあがる石の階段の左手にある歌碑。
「笛の音の絶えなば一期 菖蒲前土中ふかく こもりしと ああ 歌 山本節子」
菖蒲前こと西妙尼の最期の言葉を歌ったもの
幣殿に掲げられた、板碑の歌碑2首
「深林の 匂いたちこもる水辺に 世塵洗われてありぬ一とき」歌、山本康夫
「こえあげて 君のめでたる真情 水の けふも清らに ここに集まる」歌 山本節子
拝殿に掲げられた絵馬、雨ごいによって降った雨に喜ぶ農民の表情が実に嬉しそうです。

雨ごいによる雨の恵みに感謝した、
源三位頼政公の御神歌、菖蒲前 御神歌とあります。
菖蒲前が詠まれた歌を額にされて奉納されている。

菖蒲の前御墓の覆い屋に掲げられた菖蒲前の歌の扁額、

 (小倉寺跡、小倉名水が隣接地にあるが、立ち入り禁止により山に戻ってしまい近づけなかった)

9.神機隊士 戊辰戦争で戦死された 造賀善太郎隊士の墓、増加善太郎惟義と彫られている。
 側面には功績が彫られている。功労として生涯2人扶持、名字帯刀を許された栄誉が記されている。
 解説:西澤秀次氏
解説する西澤氏 造賀さんとは親戚になる

西澤氏が移した、側面の碑文、造賀善太郎隊士の
功績が彫られている

10.西福寺、稲生神社 、神社と寺院が同じ建物になっている。かつては鐘つき堂もあった。
  西福寺は、姫が池に身代わりとなって身を投げた侍女 鶴が入水前に金の持仏を置いて身を投げた、その金の持仏がまつられていたという、今は失われていている。小倉12坊の1寺と伝わる。

かつては境内に、並んで建っていたが、
建て直された際に同じ建物になった。

額には、蓮花山西福寺 稲生神社とある





16:30 解散

参加者:石井勝彦、織田成和、近藤孝美、杉原照登、竹本省三、中原久夫、西澤秀次、松浦学、国永昭二、国松宏史、天野浩一郎/11名

東広島郷土史研究会では、皆さんのご入会をお待ちしています。

        

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