2019年3月28日木曜日

第35回東広島の史跡・文化財を見て歩く会コース試歩を行いました。

第35回東広島の史跡・文化財を見て歩く会試歩が行われました。

平成31年(2019)4月29日に開催される前に決定したコースを実際に歩きながらコースの安全や注意する点を実際に想定時間に合わせて歩いて点検するものです。

9:30に集合場所の平岩小学校を出発します。

平岩地蔵
交通量の多い道路沿いにあり
コースの一番最初の解説地点なので
人の込み具合を点検します。
ゆうりんさん(綿林神社)
民有地が傍にあるので
民有地に立ち入らないよう注意を促すようにします。
寺家駅
新しく開業した寺家駅を南北に線路をまたいで渡ります。
地元寺家会が10億円を負担して誘致したものです。
途中 西国街道を横切ります。
向こうの山をこえると
飢え坂があります
平泰寺
整形板碑や一石五輪塔 蔵田房信の供養碑がある
 平泰寺にある蔵田房信供養碑
鏡山城合戦開場のため働くが
自刃させられる。
西条東村との境にかけられて
いるのが発見され平泰寺に
移される
 古屋城跡
寺家城跡
新宮神社
神武天皇の腰掛石があります。
手水鉢として使われており
盃状穴が見どころです。
新宮神社を出て山の中を通る
中世山陽道として使われていた
道路を歩きます。 
中世山陽道から長福寺へ向かいます。
長福寺の鎮守社
諏訪八幡宮
諏訪の名は諏訪明神ではなく
八幡宮遷宮の使者の名前が諏訪だったから
西条柿発祥の地
当日は12神将の像を
見せて下さるそうです。 
 昼食場所となる寺西小学校
校庭に移されている羅漢古碑
青谷の風景がいかに美しいかが
よまれている。
寺西小学校の設立のために貢献された人々の
功績をたたえる石碑の数々。
賽ノ神
古代山陽道推定値沿いにある
道祖神で旅の安全を願ったものか
発掘されたところ
石をもった石塚の上に建っている
発掘したときの様子
石塚の上に建っている様子がわかる

賽ノ神南側で発掘された
横田第一遺跡
弥生時代の住居跡が10基発見された
住居跡からガラス製の玉が発見された

郡八幡神社
正玄寺

正玄寺の銅鐘
天女が美しい







2019年3月24日日曜日

第35回東広島の史跡・文化財を見て歩く会コースとチラシが決まりました。

第35回東広島の史跡・文化財を見て歩く会

コースとチラシが決まりました。

開催日 平成31年(2019年)4月29日(月・祝日)小雨決行
集合場所 平岩小学校 JR寺家駅から歩いて10分     東広島市西条町寺家521‐9受付 9:00 開会式 9:30 解散15:00頃参加費 大人500円 中学生以下無料持参品 弁当 飲み物 敷物 雨具コース 平岩小学校→寺家駅→平泰寺→新宮神社→長福寺→寺西小学校    →賽の神→郡八幡神社→平岩小学校     (古代山陽道)主催 東広島郷土史研究会 問合せ 090‐7979‐6234 國松後援 東広島市・東広島市教育委員会

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第35回東広島の史跡・文化財を見て歩く会 東広島市郷土史研究会 チラシ ちらし
第35回東広島の史跡・文化財を見て歩く会 チラシ 東広島市郷土史研究会

第35回東広島の史跡・文化財を見て歩く会 東広島市郷土史研究会 チラシ ちらし
第35回東広島の史跡・文化財を見て歩く会 マップ 東広島市郷土史研究会

維新に活躍し西南戦争で戦った芸州広島 神機隊士 後藤仁三郎隊士の墓を訪ねて

幕末、明治維新に活躍された神機隊の隊士の墓にお参りした

平成31(2019)3月23日
東広島市河内町上河内に働いた芸州広島
諸隊の神機隊の隊士 後藤仁三郎(ごとうにさぶろう)の墓に
お参りした。
後藤仁三郎の子孫の方にご案内をいただいた。
登橋の旧橋のたもとで落合い。山中500mほど上がったところに
後藤家の墓所があった。
穂高健一先生の著書の依頼をうけお渡ししたご縁で、東広島市
郷土史研究会の会員となっていただいた同氏からご先祖が神機隊士
加藤仁三郎であることを聞いていて是非墓参りさせていただきたい
ことを快く了承いただき実現した。
逸話として後藤仁三郎隊士は明治になってからも袴を履き刀を差し馬に乗っていたという。
真ん中が後藤仁三郎の墓
左は其の功績を刻んだもの
左は妻の墓

右側面に後藤仁三郎とある。
明治二十七年一月三十一日なくなったとある、
 後藤仁三郎隊士は東北出軍第二隊で慶應4年7月26日奥州広野の戦闘に於いて多数の犠牲者を出した第一隊の要請により、その補充隊として同年8月20日正午志和の屯営を出発し、翌21日夜11時和船にて江波港を出帆、同28日大阪中之島上陸、陸行して江戸を経て10月15日亘表に到着、以後仙台周辺の警備に従事、翌明治2年8月15日仙台出発、9月5日江波港上陸した部隊である。 東広島の歴史事典 <武田正視>          
二番中隊 隊長補についている。                       

慶應三年9月芸藩神機隊に入隊とある
功により士分となり、二人扶持を賜ったことが
刻まれている
出兵した隊士は苗字帯刀、袴の着用、生涯二人扶持を賜っている。
左側面には明治十一年七月西南の役に従軍とある

平成元年に建てられた神機隊120年記念碑

2019年3月21日木曜日

勤皇僧 宇都宮黙霖の墓参りに行きました。

平成31年3月21日 宇都宮黙霖の墓を訪ねました。

浄土真宗 多聞山 西福寺の宇都宮黙霖の墓参りしました。
長州の吉田松陰と書簡にて論破し討幕へと考えを改めさせた
という。伊藤博文にも先生と言われ帯などを贈られたという。
亡くなる前には両親の墓のある西福寺に眠りたいとの希望で
墓がたてられた。                   






明治維新に貢献した芸州広島 神機隊士 造賀善太郎の墓を訪ねました。

明治維新のために芸州広島から神機隊(しんきたい)という諸隊が編成されました。諸隊とは民兵が主体として結成された。藩の正規軍とは違い、すべて隊の自費で隊士の給与など戦費はまかなわれました。
造賀善太郎惟義墓と彫られている。


側面には名字帯刀
生涯二人扶持と
彫られている。



福島県修行院に現地の墓が建てられ
東日本大地震の際倒壊したが
現地のご厚意により復元され
天台宗僧侶により法要が行われた。

2019年3月17日日曜日

神機隊 宮崎三左衛門隊士の墓を訪ねました。

東広島市八本松町原にある神機隊隊士の墓にお参りしました。
ご案内いただいた、宮崎氏によると元は菅原と言っていたが
三左衛門の代より宮崎と名乗ったという。戸籍を取り寄せ確認
されたという。
旧原村からは8名が従軍したという。
平成31年(2019)3月17日
東広島市八本松町原に宮崎氏が住まわれ、同じ班でもあり
初代が神機隊であると言われてお訪ねした。ご自分でも戸籍
など取り寄せ家系図を整理され根拠となる文献を見せて戴いた。

八本松町原の寺屋敷にある
宮崎三左衛門の墓

三左衛門妻の没年が記載されている。

俗名宮崎三左衛門とある
大正七年九月二十四日亡とある。

神機隊士としての根拠が原村史に記載されているという。
ページ数の箇所に記載有り
従軍中に刀で敵兵を倒したという記載がある

原村史にある記載事項
仙台城 入城後 函館五稜郭まで行ったとある。

2019年3月14日木曜日

神機隊士 加藤常太郎墓を訪ねました。

神機隊 加藤常太郎隊士の墓を訪ねました。

平成31年3月14日
幕末に戊辰戦争で戦った 芸州広島藩の諸隊 神機隊士の墓をたずねました。
神機隊とは幕末の芸州広島藩の諸隊(藩の正規軍ではない農民などの民兵が中心となって結成された部隊)
備中、備後から京都鳥羽、江戸上野で彰義隊などと戦い福島県の浜通りを連戦し仙台城を無血開城し入城。
場所 東広島市西条町助実
江戸時代の旧山陽道にほど近い地に隊士の墓が建っていました。
子孫の方は地元にはいらっしゃらないようで、地元の方が大切に守ってくださっていました。(個人の農地の中にあり、猪よけの電気柵の中にあり勝手に訪問は出来ません。)
郷土史研究会の会員と管理者の方と自分とで3人で訪ねました。
周囲には旧山陽道があり、西条四日市の宿場の郊外で近くには丸小山があります。
 そばには丸山神社と丸山神社古墳群があります。
農地の真ん中にある墓地
もともと周りの農地も
墓地と同じ高さの山だったそうです

地元の管理されている方が神機隊の話を聞かれ
建ててくださった案内板

真ん中の木の蔭に隊士の墓があります。
手前にも加藤家の名前が彫ってありましたので
加藤家の墓地ではなかろうかと思われます。
管理をされている方に案内していただきました。
真ん中の墓石が加藤常太郎隊士の墓です。

右が正面で加藤常太郎義光墓とあり
左面に行年二十二歳とあります。


そばの墓石にも加藤家の名前が彫ってありました。
3基の墓石は加藤家の墓地ではないかと思われます。

加藤家墓地遠景 右端の大きな墓石が加藤常太郎隊士の墓。