2019年10月3日木曜日

歴史紀行 広島藩と天野家

広島藩と天野家

令和元年9月27日、吉本正就 記

広島駅の北側、二葉山に連なる尾長山の山裾に 先の原爆・焼失を免れて、周りの高層マンションに囲まれ取り残された家がある。
広島城周辺が 軍用地になる為 替え地として当地に明治初年に移り 以来住み続けている 天野家である。
その家に古文書が残っていることは 数年前に聞いていた。

この度、志和で穂高氏の講演会が企画された折り、“鳥羽伏見の戦い・八幡戦争の図”の絵図が当家に有ることを思い出し(広島城で行われた、浅野氏入城400年行事「戊辰戦争と広島」の展示会で知る)、展示するため写真を撮りに行くことにした。
911日(水)菅野さん、船越さん、吉本で午後から訪問した。奥さんの出迎えをうけ、玄関を入ると応接間に続く。鴨井には数本の当家の家紋が入る槍が掛かっている。その床の間に目当ての絵図(八幡戦争之勝利図)が額に入れて置いてあった。
自家製のジュースをいただきながら「何故、この絵が当家にあるのか、残っているのか」から秘蔵品の話が始まる。
「広島城西二里 芸州佐伯郡井口山 鈴峯の尾崎 滝口山を寛文三年に求め」と当家の古文書にある 墓地を守っている。
墓掃除がしてあるのに気付いた女性郷土史愛好家の来訪が「縁」で 30余年もの間 当家の古文書の解読を中心に指導を受け 幕末維新の研究家からも長年に亘り指導を頂いている。奥さんは「お陰で 天野家に関連した事についてだけはわかるようになりました」と言う。当家のご主人は シニアサッカーチームの監督をされていて外出中であった。

そもそも天野家は?
浅野長訓公(茂長)から軍事指令書写(尾張大納言から出された制令)が天野保充に出された古文書がある。
系譜によると「天野家は三河国の出身で徳川譜代の家柄である。広島天野家の初代天野半之助清正は織田信長の弟の孫で 家康の奥小姓として 本多正純 松平信綱 板倉重昌、石川左近(丈山)らと共に江戸城で仕え 大御所政治をする徳川家康に従い駿府城三の丸で300石 屋敷も拝領していた。駿府城火災も経験している。
ちなみに 兄・市助は本能寺で殉死している。
家康が晩年に9男・義直に徳川家の盤石を期待するあまりに重用するようになった義直側近の「新参者」と数十回もの戦いをしのいで来た 「旧臣達」との確執の事件に巻き込まれた。徳川を離れ、大阪の役で手柄をたてた勇者で、元和7年、浅野長晟に召し抱えられて知行三千石を拝領し 家老・上田宗箇の次女を妻とした。
七代天野保允可咸は「元治元年、第一次幕長戦争の時に広島藩第三隊長に任命され廿日市まで出陣した。」と記されている。元治元年の絵馬も数枚ある。時間が押したので、またの機会に見せて頂くことにした。

秘蔵品は?
古文書、武具、など、全てを確認する事は出来なかった。庭に「五社一連の邸内社」があり、帰りの際、お参りした。
船越さんに多くの写真を撮っていただいた、その一部をここに紹介します。全体をまとめて、いつか例会で話が出来ればと思います。


八幡戦争之勝利図
広島城展の冊子の表紙に使われた

広島城展の冊子の表紙


第一次幕長戦争の時に浅野長訓(茂長)公から
天野保充に下された軍事指令書である

天野家の認識章


篤姫が愛用していた「手あぶり」と同種の物が
棚に置かれている。
どんな経緯があるのでしょうか。

 天野家の家紋入りの武具



陣笠




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