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2019年4月5日金曜日

神機隊士の名前を確認のため武田正視先生にご相談

東広島の歴史事典の名簿にない神機隊士が見つかり武田正志先生にご相談に伺った。

色々な文献から隊士名を集められているが全てではないという。

いつものように細かい関連性をよどみなく
説明される。武田先生(92歳)

錦の御旗
4月30日宮城県と東京から三名、神機隊士の墓を訪ねて来られることをご報告。
予定報告
上河内 後藤仁三郎(第二隊 仙台城から 函館 五稜郭遠征)
西条町助実 加藤常太郎(第一隊 現在ご子孫の方不明 管理 松原さん案内 )
上三永 藤原春鵲(医師 応変隊から神機隊へ 待機隊)
西条 教善寺 庫裏 八条原城 文武塾講堂)
八本松町原 為本 造賀善太郎(第一隊)
八本松町原 宮東 宮崎三左衛門(原村史に記載 西南戦争にも出兵)
八本松町吉川 吉川逸平

志和町 西蓮寺(吉本氏 近藤氏と落ち合う)
吉川さんより情報 西蓮寺近所に ひょうどうさん宅に隊士の墓あり 
八条原城
志和町内の隊士の墓
以上で、宮崎三左衛門を原村史に記載があり同時に経緯をご自分でまとめられていること説明。


宮崎三左衛門隊士墓

原村史に宮崎三左衛門隊士ながあり他にも隊士の名前がある 
子孫のかたも神機隊の記事を集めておられ
菅原家から別れ宮崎姓を名乗ったことを
戸籍から調べられている



2019年2月11日月曜日

藤原春鵲(しゅんじゃく)

藤原春鵲(しゅんじゃく)

東広島市西条町上三永
藤原春徳の子、春閣の曽孫にあたる。幼少より父春徳の指導を受け、少年時代は、頼聿庵に師事。のち長崎に行き池田玄彬(蘭医ボードウィンの長崎精得館頭取、後に東京帝大医学部総理、我が国最初の医学博士)に学び、特に種痘を研究して2年後帰郷。
1866年(慶応2)6月、第2次征長出兵の際、弟子を引率して藩庁に出張して傷病兵、被災民の治療に当る。このころ郡奉行指揮のもとに従来の農兵とは別に「臨時農兵隊」(のちの応変隊)が編成されていたが、その屯営に出向して軍医長となっている。しかし神機隊関係の史料によると志和の同隊残留部隊の中に藤原春鵲の名があり、応変隊より転出したものと思われる。1853年(嘉永6)の飢饉の際には私金75両(今の約600万円)を窮民救済にあて、それも受給者の心情を慮り貸付の名目で行い、実際には返済は受けなかった。
その後も凶作の度に救済し、また郡役所に上申し、郡内全般に無料で種痘を行っている。一方では常時伝来の山林を開放して村民の燃料として提供している。1873年(明治6)上三永に小学校を創設、その費用の過半を負担している。家庭は父子・兄弟・弟子・使用人など併せて28人という大所帯でありながら常に和気藹々たるものがあったという。1884年(明治17)春、その徳行・孝義に対し緑綬褒章が贈られている。1896年(明治29)10月23日病没、67歳。(藤原家文書ほか)<武田正視>(東広島の歴史事典より)
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築地神社


碑 解説



碑文(井東茂夫碑文より写す)

碑文の大意
(井東茂夫 解読)


春鵲 父と呼岩を訪ねる 築地神社絵馬
(井東茂夫氏提供)


藤原家 墓地

藤原家 墓地


藤原春鵲墓