2019年2月11日月曜日

藤原春鵲(しゅんじゃく)

藤原春鵲(しゅんじゃく)

東広島市西条町上三永
藤原春徳の子、春閣の曽孫にあたる。幼少より父春徳の指導を受け、少年時代は、頼聿庵に師事。のち長崎に行き池田玄彬(蘭医ボードウィンの長崎精得館頭取、後に東京帝大医学部総理、我が国最初の医学博士)に学び、特に種痘を研究して2年後帰郷。
1866年(慶応2)6月、第2次征長出兵の際、弟子を引率して藩庁に出張して傷病兵、被災民の治療に当る。このころ郡奉行指揮のもとに従来の農兵とは別に「臨時農兵隊」(のちの応変隊)が編成されていたが、その屯営に出向して軍医長となっている。しかし神機隊関係の史料によると志和の同隊残留部隊の中に藤原春鵲の名があり、応変隊より転出したものと思われる。1853年(嘉永6)の飢饉の際には私金75両(今の約600万円)を窮民救済にあて、それも受給者の心情を慮り貸付の名目で行い、実際には返済は受けなかった。
その後も凶作の度に救済し、また郡役所に上申し、郡内全般に無料で種痘を行っている。一方では常時伝来の山林を開放して村民の燃料として提供している。1873年(明治6)上三永に小学校を創設、その費用の過半を負担している。家庭は父子・兄弟・弟子・使用人など併せて28人という大所帯でありながら常に和気藹々たるものがあったという。1884年(明治17)春、その徳行・孝義に対し緑綬褒章が贈られている。1896年(明治29)10月23日病没、67歳。(藤原家文書ほか)<武田正視>(東広島の歴史事典より)
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築地神社


碑 解説



碑文(井東茂夫碑文より写す)

碑文の大意
(井東茂夫 解読)


春鵲 父と呼岩を訪ねる 築地神社絵馬
(井東茂夫氏提供)


藤原家 墓地

藤原家 墓地


藤原春鵲墓




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