入野の産湯川神社を訪ねた帰り
道路わきに、大多和柳助の碑という看板があり、ちょっと寄り道
坂を上がると峠越えをしたあたりに古い石碑があった。
樋の裏側にはこのように彫られていた。
丁度峠の道の溝掃除をされていた女性が居られたので訪ねてみると
大多和柳助の頌徳碑であるという。
大多和氏といえば入野 竹林寺傍の松ヶ嶽城を築いた、大多和氏の関連で
全国から大多和さんが集まって碑前祭をされるという。
この道を真っ直ぐ行くと、平賀氏の始まり松葉氏の屋敷跡の傍を通るJR山陽線が
通っていた。
松葉氏の先祖を供養した前方後円墳型モニュメントを松葉屋敷跡を整備し墓地の指定をうけ山に点在していた古墓を整備されたものだという。
以前、入野の杉森神社傍に大多和馬介の墓の看板を発見。
大多和右馬介の墓は、山中の明日香という飲食店の駐車場にあった。
店の奥さんになぜ、ここに墓があるのか聞いてみたら、飲食店を開きたいと山を購入したら、山の中に墓があったそうで、塚のような基壇を整備されたのだという。
大多和馬介とな、名前では無く、官職名が馬介という。
元号が2種類あるのは南北朝時代であるため。
大多和氏は桓武平氏の流れで、松ヶ嶽城は、建長8年・康元元年(1256)大多和季盛によって築かれたという。相模国三浦郡大田和邑発祥である。
大多和氏は季盛、為盛、八郎太郎入道と三代続いた。
正平8年・文和2年(1353)大多和八郎太郎入道は北朝方に敗れて自刃した。
足利尊氏より恩賞として平賀遠江兵衛蔵人貞宗に安芸国入野郷があたえられた。
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