菖蒲前(あやめのまえ)の史実についての仮説
はじめに
世の識者が源三位頼政の室菖蒲前の存在を知ったのは「源平盛衰記」一六「菖蒲前の事」を読んだことに始まる。その後「太平記」などを通じて全国的に菖蒲前は絶世の美人として楊貴妃に例えられる有名人となった。
しかし菖蒲前の出生については現在まで手掛かりは知られていない。
東広島市と広島市には古くから(鎌倉時代初期から)菖蒲前に関連の深い神社が存在していた。すなわち菖蒲前は「源平盛衰記」が成立する(鎌倉~南北朝)以前から知られた人物であった。
東広島市には菖蒲前を祭神とする小倉神社があり、広島市には菖蒲前の遺志で創建した椎木八幡宮(現鶴羽根神社)が存在した。(文末に広島県神社誌記事を掲載)
論考 「源平盛衰記」に「菖蒲前」が掲載されたプロセス
小倉神社は草深い山中に位置するため旅人に知られることはない。
一方、椎木八幡宮は奈良・西大寺の荘園である牛田荘に隣接した場所にあり、旅人に源三位頼政の室菖蒲前が創建した神社として旅道中の話題となり、誰かの筆になり「源平盛衰記」の説話になったものと考えられる。
(参考)
①旅の道中で小耳にはさんだ話題が後に書物に記載される例はある。東広島市寺家に伝わる「幸熊丸伝説」は説話集「三国伝記」に掲載されている。
②東広島市には菖蒲前関連寺社が約10社、文書約10通が現存する。
「広島県神社誌」の主要記事。小倉神社
東広島市八本松町原四六二(西長沢)
祭 神 菖蒲前霊(源頼政公の室)
例 祭 八月二十七日(旧暦)
由 緒 源三位頼政は治承四年(一一八〇)平氏追討の兵を挙げたが敗死し、その室の菖蒲前は当地の小倉山に隠れ、元久元年(一二〇四)八月二十七日に没した。里人、菖蒲前を祀りて一社を建つと伝える。永禄三年(一五六〇)、毛利氏が甲胄と神田を寄せている。その後、元文三年(一七三八)に火災により焼失し、翌年に本殿を再建している。また、当神社は山上に位置して参拝に不便なため、山麓に神楽殿(遙拝所)を明治四十四年に造営した。
鶴羽根神社(旧称椎木八幡宮)
広島市東区二葉の里二丁目五の一一
祭 神 品陀和気命、帶仲津日子命、息長帯日売命
例 祭 十月二十九日
由 緒 源頼政の室の菖蒲の前が賀茂郡西条郷(現、東広島市西条町)に落ち延び、その没後に遺志により元久年間(一二〇四)家臣池田左衛門が当神社を創建し、修理料として椎木を付けたので椎木八幡宮と称した。その後、元亨年間(一三二一~四)に火災に遭い.また後の戦乱により荒廃したが、近世になって復興された.天保四年(一八三三)二月十二日、明星院より出火して類焼し、同六年に現在地に遷
座して社殿を再興した.旧鎮座地は饒津神社の境内地の一部となっている.明治二年に鶴羽根八幡宮、同五年に鶴羽根神社と改称した。
小倉神社拝殿 |
菖蒲前が言い残したという言葉を刻んだ |
鶴羽根神社 |
東広島郷土史研究会 井東 茂夫氏の考察による。
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